幼稚園児と小学生は一緒なの?
こんなことを聞いたら、十人中十人が「同じなわけがない」と答えるのではないでしょうか。実際、3〜5歳の幼稚園児と、6〜12歳の小学生とでは体格が全く違います。
同じ小学生でも一年生と六年生では理解力から精神的なものまでずいぶん違うと言っても過言ではありません。でも、一年生も六年生も学校という場で時間割に合わせ教科学習をしています。それなのに、幼稚園で幼児はまったく違う学び方をしています。それはなぜなのでしょう。
ずばり、発達の段階が違うのです。小学生の子どもであれば授業という形態の中で教師の話に耳を傾け、理解することが可能であるという考えから、6歳以上の子どもたちは小学校という学校に通っているのです。
同様に幼児期の子どもにひたすら人の話をきいて理解させるなんて、無理な話だといえます。でも、幼稚園児も学んでいます。幼稚園も制度上、立派に学校の一つであり、幼稚園の年少・年中・年長児は幼稚園という名前の学校に通っていることになります。
それでは、幼児は幼稚園で何を学んでいるのでしょうか。
「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることをかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その進行に務めなければならない」と、教育基本法の第十一条にも書いてあるように、人格形成の基礎にかかわる部分なのです。
それなのに、皆さん、○○式といった系統学習を幼児にさせたがる、それで本当によいのでしょうか。
『人より早く計算ができるように』『字がきれいに書けるように』そんな思いをもって通わせても、実際に「それが本当に役に立った」と言える方はどのぐらいいるのでしょうか。もし、その結果に満足している方がいたとして、お子さんの「人格形成に役にたった」と言えるのでしょうか。
『毎日○枚やるって約束したでしょ』『お勉強をがんばったから、ビデオみてもいいわよ』と、親の言いなりの幼児期を過ごさせ、幼児期に育てるべきものを育てる時間がけずられてはいないのでしょうか。
結果的に「人からやらされている」という気持ちが育ち、自ら意欲をもって学ぶ子というイメージからは程遠くなってしまうのではないかと危惧します。
実際、そういう声を多く耳にしますが、小学生になってから気づいても遅いのです。なぜなら、幼児期に身につけるべきものは幼児期に身につけるからこそ意味があるのですから。
それでは何をさせればいいのという声が聞こえてきそうです。それは様々な体験です。幼稚園教育は環境教育と言う方もいるぐらい、子どもをとりまく環境が大切なのです。
そして、その環境の中から子ども達はなにかを感じ、自ら行動し、学習していくのです。それは、決して与えられたものではありません。皆さんのお子さんが赤ちゃんの頃、興味のあるほうに目を向け、手でさわりたがり、投げてみたり振ってみたりするといった行動をしたと思います。それは「そうしなさい」と大人が言ったわけではなく、子どもが自ら『したい』と思ったからそうしたのです。
それがいつの頃からか、言われてもしない子になってしまった。そうお感じの方はおられませんか。それは、一見無駄に見える子どもの行為の重要性に気づかず、そういう無駄に見える行為を行う時間をうばってしまった、つまり、子どもが自ら成長する時間を与えなかったからです。
例えば、散歩中、木漏れ日に気づき、じっと動かない子どもに「そんなところで止まらないの!ちゃんと歩きない」と言っていませんか。また、幼稚園でもらってきたどんぐりでコンクリートに絵を描いたり一所懸命削ったりしている子どもに、『どうしてこんなことに夢中になるのかしら』と思われたことはありませんか。
子どもは、自然のもつ不思議さに気づき、夢中になって削ったり描いたりすることで、自ら集中力を育成しているのです。与えられたものより自ら行ったほうが身につくという意味では、体操教室などに通っている子ども達より外遊びが好きな子ども達のほうが運動能力は高い、というデータもあるぐらいです。
幼児に技術的なことを教えてなにかができるようになるより、体を動かすこと自体を好きな子どもにするほうが子どもの運動能力が高くなることは想像がつくのではないでしょうか。なぜなら、走るのが好きな子に「思いっきり走るな」と言っても無理な話だからです。
身体を動かすことが楽しいと感じている子どもの場合、鬼ごっこなどでダッシュして心拍数をあげて短距離走につながる体作りを行い、夢中になってやり続けることで持久力につながる能力も身につけることが可能です。
そして、そこには仲間がいて、『つかまっちゃった。悔しい』『よかった。タッチされなかった』といった気持ちの中から、仲間にも目が行くようになります。『〇〇ちゃんと、遊ぶと楽しい』という思いも生まれてきます。
ジャングルジム登りでは思いっきり体全体をつかって上に登り、『やったあ、登れた』と達成感を感じたり、『ぼく(わたし)、こんなに高い所にのぼれちゃった』と自己肯定感を育てたりしているのです。
ここまで書けばお分かりのように、幼児期は体験が大切なのです。体験したことが経験となり、学習として蓄積されていきます。また、体験を通し感じたことが子どもの精神の発達を促すのです。
このように、幼児の場合、人から与えられたものではなく、自ら周りの環境に働きかけることで、心情・意欲・態度が育っていくのです。小学生の学び方はそうではありません。聴く力・観る力が身についている上で、『今、自分は学習している』という自覚があるため、授業という形態でも学ぶことが可能なのです。少なくともそのような成長段階にあるといえます。
幼児の場合は、自分が楽しいから行っているのです。それは表情の楽しさだけではありません。お母様方の中には表情が楽しそうかどうかで判断なさる方がおられますが、お子さんが真剣な表情でじっと何かに夢中になっていることはありませんか。それは脳が楽しいのです。
顔は真剣でも、脳の中で『どうしてこれはこうなんだろう』とか『これをこうすればこうなのか』などと、いろいろ思いめぐらせていること自体が子どもにとっては楽しいことなのです。
さあ、お分かりになってきましたでしょうか。幼児は自ら何かを感じ取る力・自ら行動をする力をもっているのです。それを失っている子どもがいたら、厳しい言い方ですが、それは失わせるような育て方をしてしまったからです。
母と子のオムニパークの子ども達は、たとえ2歳児でも教師の話をきいて、製作遊びを楽しみ、3学期には縫い指し遊びも行えるようになります。それは、子どもを理解し、子ども自らがそれをしたいと思えるような指導・援助をしているからです。
母と子のオムニパークでは、保護者の方にこのような「幼児教育とは」を学んでいただき、子どもとのコミュニケーションスキルを身につけていただきます。お子様には、自律と自立を促します。
そのようにして育ったなによりの結果として、変容した保護者や子ども達の姿が物語っていると感じます。二度とこない幼児期、目先の受験にばかり囚われ長い人生を生き抜く力を身につけずに小学校にあがって後悔しても遅いのです。
わが子の将来やわが子の幸せを考える保護者の方々にいらしてほしいと思っております。
室長 福岡潤子
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