幼稚園・小学校受験事情

 

 「受験準備は何歳から始めればよいのか」という問い合わせをよく受けます。

 「年長児の4月からでも間に合います。過去問をしっかりやらせれば大丈夫。」10年前ならこのように答えました。もちろんこれは単に[受験に合格する]という狭い意味での対策です。合格後(レベルの高い学校に入学できた場合)皆と同じ水準でついていけるかどうかは別問題ですが…。

 少子化の今、私学は生き残りにかけて必死です。確かな実績を積んでいくためには、良い生徒、つまり「入学してから伸びる子」に一人でも多く来てほしいのです。『既存のペーパー重視ではそのような子は見ぬけない。ではどのような考査をすれば違いが出てくるのか。』私学の先生方は思考錯誤の結果「行動観察重視」を打ち出されたのです。

 ペーパー重視の場合、次のような事が言えます。一見多様にみえる問題も、実はいつかのパターンに分かれているだけ。それぞれを繰り返し行なってさえいれば簡単に解けるようになる。ペーパーをこなす力やパターンを理解する能力が身につく。 つまり、それ以外の「生きる力」や「自ら学習を推し進める力」があるかどうかは解らないのです。

 弊害もよく耳にします。出来る出来ないが明確になるので親はあせり、すべてのぺーパーについて完璧にできるようになることをめざします。その結果、友達と遊ぶ時間や本を読む時間、何かを製作したりして一人で遊ぶ時間などが削られてしまったのです。

 そして、「お勉強だけしていればいいのよ。」といった感覚が親に生れ、幼児期に一番身につけなければならない基本的生活習慣や自立心が身につかないという傾向が多くみられるようになったのです。ペーパー演習以外は「親が世話をやく」風潮により、拍車がかかってしまったのです。

 その結果、小学校に入学しても、[与えられた事はやるが、自ら考えて行動する事ができない。また、手先が不器用でスニーカーの紐が結べない子もめずらしくない]という結果になってしまったのです。そして、なによりペーパーの結果がその後の力とは連動しない事が解ったのです。

 それが行動観察重視という形に受験が移行していった一番の要因と言えます。

 それでは受験準備はどのようにしたら良いのでしょうか。

 一口に行動観察と言っても何をどのように判定されるのか曖昧です。ペーパーとは違い、テスターの主観が入るのは当然です。同じ系列校でも、湘南S校が不合格で東京にある本校のS校に合格したという話しも聞きます。教育に携わっている者であれば、何の考査をしなくてもその幼児がどのレベルか解ってしまう、と言っても過言ではありません。ただし、合格者数と同数の合格レベルの幼児が受験するわけではないので、レベルに達しているからと言って安心できないのはペーパー重視の頃と同様です。

 幼児が望ましく育っているかどうかは、態度や表情に出ます。愛されて成長し、穏やかな性格を持ち合わせ集団の中で望ましい行動がとれる子は、人の話をきちんと聞き理解し考えて行動することができます。

 私学の多くはキリスト教の教えを軸に、「自分よりも他人を思いやる」事を大切にしています。幼児期に思いやりの心を持つ事は、受験を考えずとも日常的に身につくことが望ましいと言えます。そして、そのような家庭環境で育った幼児に入学の道は開かれているのです。

 『我が校の教育には絶対の自信があります。が、成長著しい学童期の子供達。いろいろな刺激により、良くも悪くも変化していきます。両親が我が校の教育方針を理解し協力してくれる事が必要条件。我が校の生徒に相応しい家庭の子息にきてほしい』と私学は考えています。そして「子供を見れば家庭が解る」と言われるように、幼児のなにげない行動の中からその環境を読み取ろうとしているとも言えます。

 ある国立付属小学校を合格した早生まれの幼児の母親から、こんな報告を受けたことがあります。考査後「お母さん、絵本がバラバラだったから片付けてきたよ」とにこにこしながら我が子が母親に言ったそうです。日頃からきちんと片付ける習慣を身につけていた子にとってはなにげない行動だったと言えます。「試験会場で本がバラバラだったら片付けなさいね」と、言われてできるものではありません。もちろん、この事で合格したわけではないかもしれません。

 が、皆の力が横並びの中では少しでも失敗すれば致命傷になり、少しでも良い部分を出せれば合格に直接結びつく事は、誰の目でも明らかです。だからこそ試験会場で皆と違う格好をするのは良くも悪くも勇気のいることで、変な噂が横行するのだと言えます。

 長く続いた理科・社会という教科が「生活科」となって何年か経ちますが、このような形になったのは、幼児期に当然身についていた「まわりのものに興味や関心を持つ」事や「身の回りの事は一通り自分で行なう」、「自分のことを通して社会に関心を持つ」などのことが身につかず入学してきたことによります。その事が改善されていない事は小学校受験で[スモックを着る。たたむ。]などの課題がいまだに出されていることからも解ります。

 学級崩壊の子供たちは何の分野が得意不得意という以前の問題として、じっとすわっていることができません。「なぜ教師の話しを聞かなければいけないのかが解らない」と言います。つまり人に学ぶことを知らないのです。教師に限らず誰かが自分に何かを教えてくれている時、やりたい事があってもとりあえずはきちんと聞いて理解しようと思う心が育っていないのです。

 特に子供が親に対し「学習する上での素直さ」を持てる事が重要です。それには知る喜びや出来る喜びを知らせる事です。幼児は向上心の塊です。なにかが出来るようになると本当に嬉しそうな顔をします。また、自分のことを真に思ってくれる人は敏感に察し、信頼を寄せます。が、権力に弱いのも事実で、目の前の子供が大変な量のペーパーをこなしていても、誰かに嫌われないようにしているのかもしれませんし、誰かを喜ばせようと頑張っているかもしれません。

 この辺をしっかりと見極める事が大切です。そして、『一緒にいろいろなものを見たり体験して、活き活きとした毎日を送る』ように心がけましょう。

 あなたは『子供と一緒にいると楽しい』と感じられますか。また我が子は『家族の一員として気持ちのよい子に育っている』と思いますか。そう思う事ができれば行動観察できっと良い評価を得られると言えます。

[付記]

 少子化・不況の折、大学に限らず受験者数は減っています。そのため、わずかな学校でのみ行なわれていた卒業生枠が、他大学でも実施される傾向にあります。ここにきて『両親のどちらかが出身者であれば、校風その他理解してもらう必要もなく、家庭環境においても心配は少ない』と云う理由で、縁故に対しうしろめたさからか今まで公には言われなかった制度が前面に押し出てきました。

 同じ血の者が多くなれば劣勢の遺伝が出やすくなるように、一見安定した路線のように見えるこの制度は、結局縁故のない者に対しては枠の狭さとなり締め出す事にもつながります。このような傾向はすぐにでも幼稚園・小学校受験にも飛び火することが考えられます。ただでさえ、幼稚園・小学校受験は「お受験」と言った言葉でいろいろな意味で揶揄されています。現状でも卒業生は備考欄に必ずその旨記していますが『縁故で入った』のでは幼児の心に陰を落とす可能性もあります。「公立の荒れ」を憂えて「私学に」という親の思いをきちんと受け止め公正に見極める私学であることを、教育者の一人として願っています。

(指示行動その他に関しては、また別の機会に触れたいとおもっております。)