人は見た目が9割

  初めて会った人を捉える時、第一印象が大きくものをいいます。それは着ているものや、その人の持っている雰囲気であったりします。それは人ではなく国の場合も同様ではないでしょうか。

 中国製冷凍食品による食中毒が連日マスコミでとりあげられておりますが、そのニュースを目をした時すぐに、昨春上海を訪れた時に見た光景が思い出されました。

 出来上がれば世界一と云うビルのすぐ下を、リヤカーを轢いた身なりの貧しい人々が行きかっている、若い女性が外でトイレをしている、以前新聞で見た写真通り緑のペンキで塗られている削られた山肌などを目にした時、お隣の国なのに価値観や文化の違いが大きいことを肌に感じたものです。

 「中東の笛」と呼ばれるアラブ諸国よりの判定がニュースをにぎわしたのも、つい先日の事です。日本人の感覚では計れない出来事だと思います。このような多様な人々が暮らしている地球上ですが、ともすれば、「分からない」と切り捨ててしまいがちではないでしょうか。互いに知ろうとする気持ち・好きになる努力をすることが、とても重要なことなのではないかと思います。

つい最近参加した出版関係のパーティでは、多数の方々と名刺交換をしてまいりました。互いのバッチを見れば出版関係者・作家の区別がすぐ分かるようになっているにも関わらず、同じ作家の方からも多く声をかけていただきました。

 人に興味を持ってもらえることは一つの才能です。その意味から、年齢を重ね、自然にそれが身についたのであれば、素直に感謝したいと思っております。それは着ているもののTPOの結果だけではなく、表情であったり人を素直にうけいれようとする気持ちが相手に伝わった結果なのではないかと思うからです。

 長年幼児教育に携わっているうちに、自分の言おうとすることを理解してもらう前に相手(幼児・母親)を受け入れるという姿勢が身についてきた結果なのかもしれません。

 「人は見た目が9割」などという人も居るぐらいでが、見た目とは着ている服装だけではなくその人の持つ雰囲気で会ったりするのではないでしょうか。

一歩会場前ロビーに出ると、出版物が多数並べられていました。その時目が行くのは、やはりタイトルです。つまり、我々は装丁やタイトルから無意識に中身を知ろうとしているのだと思います。

でも、出版する側は必ずしもそうではありません。私の本の場合も各出版社の編集長は異口同音に「まず、手にとってもらうために、このタイトルなのです。」とのことでした。

でも、私の本をブログにとりあげてくださった方たちは「タイトルは下品だが、その題名だけ見て手に取らないとすれば、それはもったいない。これは良書だ」と。

本の装丁を変えたところ売れ出した本も数知れずあるそうです。実際はどうあれ、タイトル・見た目が大事ということは、やはり言えることのようです。

 昔から、ふだん着慣れないものを着ると「洋服に着られている」という言い方をされますが、何を着るかは「自分が他人にどうみられたいのか」を表現するものでもあると思います。

 初対面の場合、表面から入り内面を徐々に知っていくというのが通常なのですから。でも、内面が伴っていないと見る人に違和感を与えるのも事実なのだと思います。

 最近は人を受け入れようとせず、自分の主張ばかりする子ども達が目に付きます。内心は友達になりたいと思っていても、『人から声をかけてもらいたい。自分からは行きたくない。』というように。その結果、硬い表情になってしまったり。

 先日、電車内で「座りたい!」と訴えながら、いざ人が譲ってくれると、首を振って座らなかった6〜7才の女児がいました。一緒にいた父親はわが子にお礼を言うように促すこともせず、そのまま違った話題でおしゃべりをしていました。

 「座らなくてよかったなら、どうして座りたいって何回も言ったの?おかしいな。」「混んだ車内では、お父さんにしか話しかけていないつもりでも皆さんの耳に○○ちゃんの声が聞こえてしまうんだよ。親切なおばちゃんが席を譲ってくださったのだから、座らなくても、そのことにありがとうを言ったほうがよかったね。」と云うように話してみる必要があったと思います。

 つまり、人から見られているからお行儀よくしなさいというのではなく、幼くても人から自分がどう見えるのかを知らせるべきだったのではないかと私は感じたのです。

 このような小さなことを積み重ねるうちに、よい意味で人から自分がどう見えるのかを、理解しその場にあった言動を考えて行なうようになるのだと思います。そうすれば、将来、車内でモノを食べたり、通路にしゃがんだり、自分達だけのように大声で話す若者にはならないですむのではないでしょうか。

                                                   福岡 潤子