表現する文字

  

母と子のオムニパークの子ども達は1歳児クラスの早い段階で、自分のものと他の子どもの名前カードの違いを見分け、手を上げることができるようになります。

それは一文字ずつ平仮名が読めているからではなく、平仮名が並んでいる全体の雰囲気から自分の名前を判別できるようになるからです。私はそれを「字並び」によって分かるようになる段階と捉えています。

それが2歳児になると、〇〇ちゃんの「〇」と自分の△〇の「〇」という字が同じだということに気づき、〇がどのような音であるかを理解していくのです。

それが進むと、自分の読めるようになった音をたよりに、絵本を丸暗記して、さも読んでいるかのようにページを繰ったり、拾い読みするようになります。

拾い読みの段階では、一音ずつをどのように読むのか思い出したり平仮名を読んだりすることに精一杯なので、内容の理解まではいきません。

例えば、読み終わった子どもに、「どんなことが書いてあったの」と質問すると、もう一度同じ作業を繰り返し、結局内容が分からないままということになります。

それは「り」「ん」「ご」と読めても、「りんご」というイメージが読みながら自分の脳裏に浮かんでいないからなのです。

脳のなかで文字を認識する箇所とイメージする箇所が別々にあって、それが互いにつながらないと文字はただの記号になってしまうということになるのです。

後期のゼミの前ということで前期末に提出したレポートに教授陣がコメントをつけて返してくれました。初めてのことなので、教職大学院メンバー達一人一人が教授陣がお書きくださった内容に興味津々でした。

そんななか私のレポートのコメントには、自慢に聞こえるかもしれませんが、「論旨が明解です」「文章は読み易く、わかり易く、とってもきれいです。いろいろと本と読むことでそうなるのです。今後とも頑張って下さい。」というように書かれていました。

それらの評価に対し、単純に嬉しいという感情と、「ローマは一日にしてならず」、学生時代からたくさんの本を読み、今も毎週のように自分の考えを保護者用プリントとして書き続けていたことが、しらずしらずに力になったのだと実感いたしました。

そして、温かな励ましのお言葉に、文字として表現する事は、自分の思いや考えを人に伝えること、表現することなのだとあらためて感じることができた出来事でした。

                               福岡 潤子