学位授与式に東日本大地震発生!

 

 3月11日、無事に教職大学院を卒業することができました。修士と同時に、教員免許の最高位である専修免許も手に致しました。

 真ん丸顔に房のついた四角い帽子・黒いガウンという還暦のいでたちは、まるでコントのようでした。でも、誰一人笑う人はなく、若いストレートマスターはかっこいいと言ってくれました。

 この二年間、常になにかに追われて走りっぱなしという感じでしたが、それも今日で終わりと思ったのもつかの間、とんでもないことが起きました。

 それはいきなりの出来事でした。感謝の集いの準備でいったん教室に戻っていたところに起きました。あまりの揺れの激しさに思わず外階段を下へ下へ。

 下に下りると、同じビルの中に最近できた保育所の子ども達がビニールシートの上に小さく固まり、先生方が囲んでいました。なかには「ママー」と叫んでいる子どももおりました。

 他の方々と情報交換した後、とにかく大学に戻らなくてはと松戸駅のほうに向かうと、「ただ今より、駅へ入ることができなくなります。シャッターをおろさせていただきます。」というアナウンスが聞こえ、大変な数の人々をかき分けて西口から東口に出るころにはシャッターが閉められてしまいしました。

 目指すガラス張りの建物のそばに近寄ろうかどうしようかと思い悩んでいたところ、他の院生たちと出会うことができ、とりあえず大学に戻ることになりました。

 大学の構内には卒業生やその保護者・教授のみなさんたちが、身体を小さくして職員の話に耳を傾けているところでした。

 指定された建物の中に入り、院生たちともっと大きい地震がきたらと、不安な時間を過ごしていましたが、とりあえず感謝の集いは行わないことが決まりました。

 私は自宅に歩いて帰ることができますが、他の院生達はそうはいきません。とにかく、一人暮らしの主人の母のところに行き何事のなかったことで少し安心し、次のことを考えました。

 次は教室、と戻ったところ、大きな家具や本棚は倒れていなかったのですが、絵本や細かな玩具類が散乱し、職員室側はモノが多いので特にひどい状態でした。その間も余震があり、何も片付けず急いで外に出ました。

 次は院生達にモノを運ぶ番。そう思ったのですが、車は使わないほうがよいとの頭が働き、結局、毛布・羽毛布団・バスタオル・食べ物と気がつくものを持てるだけ持って大学へ。

 胸はドキドキ、血圧が上がりぼうっとしていましたが、とにかく運ばなくてはとまた家に…。

 帰宅してからも疲れきってシャワーも浴びずに床へ。でも、興奮と余震の揺れで寝むれない一夜を過ごしました。

 運が良いのか悪いのか、ちょうど翌日9時に倉庫の契約変えの約束がありました。モノが散乱しているなかで、キーをいただき、多くの教材を入れている新松戸の倉庫から松戸駅近くの倉庫へ移動開始。

なぜかやる気いっぱいの主人に伴われ、何往復も荷物の運搬。さすがに疲れがピークに。そして、翌日は半日運搬、午後から製作帳の表紙作りと作品の包装と3学期の最終週の準備。

 その間も、気象庁からの今後三日以内にM7程度の余震が起きる可能性が70%という情報を得、月〜水曜のクラスの保護者に来週に振替の連絡。その連絡がなかなかつかず、単につながりにくいだけなのだと思いつつ何かあったのではと心配したりと落ち着かない思いでいっぱいでした。

 今日は少し、気持ちが落ち着き動こうと思った矢先に、計画停電が日中だとわかり、結局一番動ける時間に信号停止。二往復してから、やっと教室の整理に。

 この際だから、こんなことが起きても玩具類が散らばらないようにと、引き出しの中身を入れ替え。動かしだすと、あちらもこちらも動かすことになり、ちっとも片付かず、かえって広がっている状態に。

 どうか、明後日にいろいろな準備が間に合いますように。苦しいときの神頼み、こんなときにしか神様のことを思い出さなくてごめんなさい。

 ほとんど被害のない松戸の私でもこの数日この有様です。原発の近くにお住まいの方や津波で流された方々のご家族の方々、本当に寝耳に水でこの状態を迎えられていることと思います。

 皆様が、少しでも早く、日常の生活にお戻りになる日がきますように。心より、お祈り申し上げます。

                   

                       (文、福岡潤子)


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