人としての心

 

最近テレビに映し出された映像で、とてもショッキングなものが二つありました。一つはリビアのカダフィ大佐のもので、もう一つは中国のひき逃げ事件に関するものでした。

前者は、「独裁国家の党首の末路は決して良いものではなく、結局、民衆によって葬り去られる。」ということを思い起こさせてくれるものでした。

政界情勢に詳しいとは決していえない私ですが、次のようなことを感じました。

権力によって一部の人間だけが数々の恩恵によくし、その他の人々は言いたいことも口にできず人間としての尊厳を保障されない世界では、人々のうっ憤はたまる一方だったのではないかということです。それが名もない人々の狂気となって痛々しい結末を迎えた、といえるのではないでしょうか。

後者は、2歳の女児が車にひき逃げされたにもかかわらず、18人もの人々が何の手立ても行なわず無視して通り過ぎてしまった、という出来事です。

さすがに中国当局も、このような非人道的なことはどうなのかとテレビでとりあげていたことで、我々も知ることになりました。

そこでは規範意識の低下があげられていましたが、もともと中国では自分を守るために、言葉は悪いのですが、余計なことには首をつっこむなというような諺や、「二人で井戸を覗き込むな(どちらかが落ちたとき、残った方が犯人にされてしまう)」といった諺があるそうです。

倒れた場所は人通りの多いところだったので、目の前のお店の従業員に中国のテレビ局の人がインタビューしたところ、「あなただったら、助けるのか」、暗に「助けなかっただろ」という言い方をしていました。

また、その番組中、ある若者が登場しました。なんでも、倒れていた老婦を助けたところ、その老婦に犯人扱いされお金を要求されたということでした。

日本ではそのような話はピンと来ませんが、中国というお国柄ではありえる話なのかもしれません。そうであっても、実際に目の前に倒れている幼子を見たら、すぐにでも声をかけ救急車を呼ぶという行為は、人として育っていれば、当然しないではいられないのではないでしょうか。

その一連の報道をみながら、大学院の危機管理のゼミのなかでの事例を思い出しました。

東北のほうの幼稚園での話です。登園したはずの園児がいないことに先生方が気づき、園内をさがし始めた時、一人の先生が目の前の道路に出てみました。目の前には頭から引かれ即死だった子どもの姿が。園長先生が見たときは、その園児の頭から流れ出ているものを必死になって集めていた先生の姿だったそうです。

私は、今でもその光景を想像するたびに目頭が熱くなります。命の大切さが叫ばれる昨今、「直接関わりがない人であっても誰かの大切な人であるということ、それが想像できること、心のつながりを感じられる人に育つこと」の重要性をあらためて感じています。

中学校から小学校、幼稚園にまで、「いじめ」が内在化・低年齢化してきています。最初にあげた二つの出来事をテレビで目にしたとき、「子どもたちが、一人ひとりの心を感じられる子に育ってほしい。」と心から願わずにおれませんでした。

                                福岡 潤子