毎日新聞 『いちこちゃんのおばちゃん』

テーマ『私のない母』 日曜版 6面

 

(抜粋)

 

8月の半ばにアメリカに帰ってからこの方、自分がまったくない生活をしていました。

他人のことに忙殺されていました。他人のことというのは家族、とくに、子供達のことです。

 …思春期があまりにむずかしいので、いざ、今はかまってやる時期と腹をくくったあたしなんですが、それにしてもこうえんえんとかまいつづけてなくちゃならないと、さすがにまいってきました。

ほんとうにいちこ(十四歳)もにこも(十二歳)も、あたしにべったり頼りっきりです。 

 …自分の人生も、将来も、生活全般も、学校のことも、人間関係も。ほっといたら、明日にでも野たれ死にするかもしれない。思春期が、二人も、でかい図体でうちの中にくすぶっていて、まるでおむつをしているあかんぼみたいに世話を母に焼かれている。

 …これはもしかしたら、退行というよりそうとう腹を据えたかたちの抗議、抵抗なのかもしれない。今までかまわなかった母親にたいしての?とじつは少々胸に覚えがあるのです。

 …かれらがじっさいおむつをしていたころには、あたしは保育園に全面的にたよって、がんがん仕事をしていました。少し大きくなってからは、自分のことに精一杯かかずらわっていました。(離婚だ恋愛だ仕事だと、いろいろ悩みがありまして)。いえ、後悔はしていませんよ。いつだって一所懸命でした。子供の事だってあたしなりに向き合ってはいたんですが、子供のほうで意識的にか無意識的にか、不満を感じていたんじゃないかと今になってみると思うんです…。

そういうわけです。あたしは、自分の人生の上で、はじめてこんなに他人に(子供らですけど)ほんろうされる、自分のない思いをしています。

 …しかし今は決心してるんです。しばらくは、子供にかかずらわりたいと。それで、子供の都合で、一日中、分刻みに生きている。これが母親か。他人のことで忙しい人生って、人生を湯水のように浪費している感じ。ほんとに大切なことには向き合わないで済ませちゃっている感じ。たいへんだたいへんだと八っつぁんみたいにめまぐるしく生きてりゃいいこの生活は、楽といえば楽か。

 

 

いかがでしょうか。子育てはつくづく難しいものです。やっているその時にすぐ結果が出ず、何ヶ月あるいは何年も後になってから出るものだからですね。

この文章を読んでいらっしゃる方達の多くは、まだ小さなお子さんをお持ちだと思います。幼子は母親にとってまさに分身。どんなに叱っても「ママ!」と、泣き付いてきてくれる存在です。でも、母親より身長が伸びたころ(中学生)になると、急に大人びて感覚的に我が子というより一人の人間であり、まさに《他人》とさえ感じる時もあります。私の娘も16歳と20歳ですので、いちこちゃんのおばちゃんの言いたいことはとても良くわかります。そして、幼子をお持ちの皆さんはこういった文章を読んでも実感できないことも。済んでしまえば子育ての時期は短い、と思えますが幼児の母真っ只中の時は、毎日毎日子供の世話におわれ、一生「自分のない生活」が続くような気分でしたから。

何歳になれば自然にこれが出来るようになる、何歳になれば自然に手がかからなくなる、ということはありません。小学校に入学したころ忘れ物の多い子は、卒業のころになっても忘れ物が多いものです。幼児期に同じ手をかけるにしても、子供が自分で出来るようになるための手のかけ方と本人にやらせると面倒だから大人がやってあげてしまうのとでは、まったく意味が違うのです。

自分のことは自分でやる、これは自立の第一歩です。それがいまだに世話してもらい続けているという事は、精神的にかなり幼いと言えます。体はいくら大きくなっても、自立することを要求されずにきた子供達に「中学生になったのだからやりなさい。」と言ったって無理な話です。また、母親にどっぷり依存している子が主体的に行動するなんて、出来るはずがありません。

このお母さんは、幼児が中学生になるまで成長していることに気づかなかったことを、以前のエッセーの中で認めています。そして今からでも、かかずりあおうとしている点は立派です。気づいたときが実行の時です。でも、このぐらい大きくなると、今から方向修正するのは子供にとっても大変だし、親にとっても大変なエネルギーが要ります。とはいっても、親として気づいた以上はなんとかしないわけにはいきませんものね。

 我が子が中学生になった頃には、もっと思春期の子供の親らしい悩みを持ちたい。そして出来れば「自分のない母」ではなく、「自分のある母」という感覚を持っていたいと思われませんか。

いつまでも幼児の母親のように1から10まで子供中心の生活や、世話をし頼られる毎日ではなく、家族の一員として認め合い、それぞれの生活(学校・勤めなど)を持った上で、何か困ったことが起きた時相談し合えるような、そんな関係を子供と持ちたいものです。

では、どのようにすればよいのでしょう。それは、幼児期に子供と真剣に向き合うことです。

このように言うと、「私は真剣です。」と皆さんおっしゃいます。本当にそうでしょうか。幼いからと見て見ぬ振りをしたり、頭ごなしに叱ってその場だけ「ごめんなさい」を強要してはいませんか。

例えば、お友達をドンとこずいた。もちろんいけない事をしたのだから誤らせるべきです。でも、「ごめんなさい」を言えば、それで良いのでしょうか。「自分がされて嫌な事は人にもしない」相手の痛みを知る事を学習させなければ、その子は何回でも同じ事を繰り返すことでしょう。また、ごめんなさいだけを強要された子は、人に指摘された時だけ誤ればよい、ということを学習してしまいます。

このように人間は、幼児期の些細な出来事の中から、生きる上でのいろいろな事を学習しているのです。洋服を着替えさせて、ご飯を食べさせて、お風呂に入れて、を毎日繰り返しているうちに子供は確実に発育していきます。その時母親は、とかく目の前の起きた事だけに目を奪われ、かっとなって叱ったり、見てみぬ振りをしたりしがちです。そうではなく、一つ一つの事象がその子にとってどのような意味があるのか考え、叱ったことや誉めたことがきちんと我が子に伝わるよう、幼い時こそ真剣に向き合いましょう。

                       (文、福岡潤子)


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