幼児は、なまもの

  

 小さな苗のうちに悪い芽を見つけた場合、一刻も早く摘み取らなければなりません。なぜならその木の発育成長は、悪い結果が出たと気付いた時点でもそれを止めてはくれないのですから。そして、その対応が遅ければ遅い分、何年か後にはもっと大きな結果となって表れてきてしまいます。逆に良い芽を育てていけば、その木全体に良い結果をますますもたらす事は言うまでもありません。人間も木と同様、苗の頃にどのような刺激を与え対応するかで、枯れもするし大きな花やしっかりとした実をつけたりもします。

 ところが最近は、たとえ悪い芽が出たと気づいても見てみぬ振りをするケースが増えているように感じます。若い母親が幼い我が子に食事を与えず餓死させたという悲惨な事件や、自分たちの時間を楽しむため幼児を車の中に置き去りにした結果死なせてしまった、という考えられない事件も目にします。これらは上記の悪い芽とは別のレベルですが、このような事件に発展しなくても、幼児に対し無責任な対応をしている母親は、結果的に幼児の悪い芽を放置しているになるのではないでしょうか。

例えば過保護の母親。我が子のためには自分でさせたほうが良いとわかっていても見守ることが出来ず、やってあげてしまう。これではその子の自立を妨げることになり、死に至ることはなくてもじわじわと生きる力をうばっていることになります。なにかが出来るようになった時に幼児が見せる「できた!」という時の顔中輝いた笑顔や自信をうばってしまっている。それでは、土が乾いているのに面倒がって水をあげるのを遅らせているのと一緒です。

『私はだいじょうぶ』と思っていらっしゃる方も多いと思います。でも本当にそうでしょうか。自分の叱り方がいけないと解っていてもつい頭越しにどなってしまう。待ってあげることが出来ない。これらは、幼児期における母親の影響力の大きさに対する自覚の欠如と言えます。言いかえれば「その重要性を頭では理解できていても感情(心)では理解できない為、心のどこかで言い訳をしたり何とかなると思い、努力しない」という事が言えます。

 

毎日接している我が子のどこが悪い芽でどの部分が良い芽にあたるのか、母親にはなかなか見えてこないのが実情です。その時、プロであり客観的に見る事の出来る教師の言うことは、大いに参考になると思います。が、ここで気をつけなければならないのは、プロである教師であっても、個々により価値観が違い見方も違うという事です。従って母親は、人の言う事に耳を傾ける素直さと、本当にそうなのか判断する力を併せ持つ事が不可欠なのです。

ですから言われた事に異論があったら、たとえ教師からでも気にする必要はありません。逆に、言われた事がその通りであると頭で判断したら、今までの心構えを立ち切る努力をしていくことが最優先事項です。その後良い結果が出ても悪い結果が出ても、我が子と一生つきあっていくのは教師ではなく母親自身。他人任せにせず自分を信じる事が大切です。

 物事をうのみにせず、良い意味で疑ってかかる事は決して悪いことではありません。日本という狭い国の中では、ともすればあうんの呼吸で分かり合ってしまいますが、多様な文化価値観を持つ世界の人々と接する場合、相手を理解し不必要な誤解を避ける意味からも必要な事だと私は考えます。その意味で、幼児にも身につけさせたいものの一つです。

 子育てが成功した時の喜びや充実感は、母親にだけ与えられた特権とも言えます。どうぞ、幼児は「なまもの」である事を忘れず、その時その時しっかりと手をかけ、一ヶ月後数年後には新たな成長の喜びを手に入れる事ができるよう、頑張ってくださいませ。

                       (文、福岡潤子)