一斉保育と自由保育  (今年の保育学会から)

 

 保育学会中開かれた英文アブストラクトの勉強会に出席したところ、コロンビア大学の先生が「アメリカの保育書には自立、自我に該当する文字が見られません」と、おっしゃっていました。この言葉を聞いた時「アメリカの子供が最初に話す言葉は、マイン(私のもの)」という話を思い出しました。アメリカの映画やテレビドラマを見ていると、どんなに小さな幼児を相手にしても、大人はその子の意志を尊重し対等の人間として扱おうとしている姿勢がうかがえます。自分の責任を持つ事を前提に、したい事をやってかまわないという雰囲気が感じられます。

 日本における幼児はあくまで「お子ちゃま」で、なにをしても良い代わりに、一人の人間として認めてもらっている訳ではありません。それが証拠に、思い通りにいかず泣いたり怒ったりすると、あやされたり怒鳴られるだけで、なぜそれをしてはいけないのか、今なぜ自分の思いを通してもらえないのかをきちんと知らされる事は、滅多にありません。なぜなら『幼い為、話して聞かせても解らない』という間違った認識が皆の中にあるからです。その結果、幼児は自分自身何故泣いているのかをきちんと説明する必要を迫られる事も無く、良い意味での精神的な緊張が無い為、いつまでも幼いままという事になってしまうのです。

 保育学会ではあいも変わらず「育ち(自発的な)」「学び」という言葉が飛び交い、積極的に学習させる事に対する反感が感じられました。確かに詰め込み学習はよくありません。自然な状態の中で子供達が互いに刺激をし合い、遊びの中から様々な事を学ぶ事が出来れば、何も言う事はありません。

 ヨーロッパでは古くから自由保育が行われてきた伝統があります。反対に日本では、教師が全員の幼児をある方向に導くという一斉保育が行われてきました。今回運良くA学院幼稚園(自由保育)の公開保育に参加する事ができましたが、いわゆる環境だけではなく、教師の質の高さや幼児を尊重する心に直に触れ、入園する為の大変な倍率も改めて納得する事ができました。

 が、問題が無い訳ではありません。自由に一日中遊んで良いという事は、遊ぶだけのパワー体験が身についていない子供にとっては退屈で苦痛以外のなにものでもありません。一クラス男女各十人という小人数(一学年二クラス)ですが、クラスとして行動するのはおやつ(お弁当)と帰りの時だけなのです。それ以外は担任という仕切りはまったくありません。園児全体を全部の教諭で見ているので、何かトラブルが起きた時その場に教師がまったくいない、という事態も起きてしまいます。本来は幼児が気づいたり興味を持った時に適切な指導が出来るだけの十分な教師の数が一斉保育には必要で、その意味からは足りないと言えます。

 一斉保育は担任制が確立している為、自分のクラスの幼児について良く知る事が出来ます。幼児にとっても全員が同じ活動をしなければならないので、やりたくない時も教師に誘われ「やってみたら、楽しかった」という事を実感し、いろいろな事を身につける利点があります。むしろ日本のような幼児感を持った国(A学院幼稚園のように既に集団生活に慣れている選抜された幼児が集う幼稚園以外)では、一斉保育の方が現状に即しているのではないでしょうか。

 今保育現場で、『やりたくない』という本人の意思を尊重する傾向があります。が幼児の場合、真にやりたくないというよりも、新しい体験や苦手なものから逃げたいというケースのほうが多いのです。言葉に出てきたものよりもっと根本的なところで本人の意思を尊重することが、真の自立につながっていくと私は思います。

 集団の中ではできるだけ「今何をする時なのか」を考えさせ、自分をコントロールする事で譲る事を覚えたり、皆と共に行動する事の楽しさを知らせる方が重要ではないでしょうか。形態としての一斉保育を残すのではなく、20年前30年前の一斉保育に戻すことが、今日の学級崩壊を食い止める上で大きな役割を果たすと私は思います。最後に主事先生の「この幼稚園の園児は、皆自分を肯定しています」と話されていたのが、とても印象に残りました。

                       (文、福岡潤子)


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